壱岐へ修学旅行。中世日本の歴史舞台・壱岐

壱岐へ修学旅行、中世の歴史教育
壱岐の歴史を歩く
HISTORY OF IKI ISLANDS
壱岐 修学旅行 歴史資料 魏志倭人伝 元寇 古事記 日本書紀
教科書でみたことある!? 元寇襲来です。

修学旅行は壱岐へ。壱岐の歴史と島の生活・海との関わりを体験学習できます。
主な名所旧跡をダイジェストで。安土桃山時代までの日本の歴史で学習したことが
壱岐に来れば確認できます。確かに壱岐は、中世日本の最前線だったのです。
教科書に載っていた歴史的出来事の足跡を直に確認してください。

壱岐の歴史を年表との対比でご覧になるなら・・ここ

日本中世の歴史とのかかわり

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魏志倭人伝・一支國の記述
一支國国府跡・原の辻遺跡
原の辻遺跡弥生人の道具
壱岐へ修学旅行
壱岐修学旅行資料
壱岐修学旅行資料
ヤマトの神々の社
横穴式古墳・掛木古墳
横穴式古墳・鬼の岩屋
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足利尊氏の安国寺
素朴な信仰が伝わる猿の石仏
おとぎ話の世界・はらほげ地蔵
壱岐へ修学旅行
壱岐修学旅行資料
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壱岐の代名詞・猿岩
捕鯨で繁栄した島
典型的農家再現・風土記の丘
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麦焼酎発祥の島になった訳は・・
古代象の化石
本土との連絡は狼煙でした

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神宮皇后
防人
万葉集
国分寺
文永の役
弘安の役
安国寺
文禄の役
慶長の役
朝鮮通信使
クジラ組
春一番

魏志倭人伝以前の壱岐

勝本町と芦辺町の境あたりを中心に点在する「鬼の岩屋」と呼ばれる古墳の数の多さは驚きに値します。
実はこれでも一部にすぎません。 壱岐島内に確認されているこうした古墳は256基もあります。 しかも、長崎県では一番古墳の数が多く、長崎県 全体の60%を占めるそうです。

掛木古墳から百合畑古墳群、そして県下最大の前方後円墳双六古墳、ぜひ足を運んでみてください この小さな島になぜ・・とお思いになるはず。 このエリアはほぼ壱岐の中央部。海から6・7キロはずれた小高い山の重なる地域です。 農耕も漁労も交易もこのあたりは不便。生活中心地は海辺の平野にあったはずです。

おそらくこの地は王家の死者の眠る地、いうなれば「壱岐王家の丘」 なんですね。 それにしても256基はケタはずれに多い。おそらく、長きにわたって壱岐にとどまって 経済力・武力に優れた海の王国になっていったのでしょう。

カラカミ遺跡とハルノルジ遺跡

その歴代王とその一族が眠るのが「壱岐王家の丘」です。 壱岐の国の首都はどこにあったか 大きな規模の遺跡としてカラカミ遺跡(日本最古の製鉄地上炉が発掘されマした)・原の辻(ハルノツジ) 遺跡があります。原の辻遺跡は魏志倭人伝に登場する倭国の国々の中で唯一、国名と国府が断定されています。

原の辻遺跡のある平野は現在は干拓されて長崎県で二番目に広い平野ですが、弥生時代も、かなり広い平野であったことは間違いないようです 。 原の辻遺跡は静岡の登呂・佐賀の吉野ヶ里と並ぶ、國指定特別遺跡 になっています。 国府の環濠集落が復元されて公園になっており、出土品は近くの一支国博物館に保管・展示されています。

ウミタイコクとヤマタイコク

壱岐の印通寺から呼子までほぼ27キロ。 交易で地理や潮については熟知して、 最新の武器戦術と戦いに慣れた軍隊をもっていた壱岐の国は島伝いに九州本土に渡り呼子・唐津に上陸制圧したでしょう。 そして海沿いに東へ進み前原・糸島エリアを従え、さらに博多の地に。 後に魏志倭人伝に記される 末盧(まつろ=現在の唐津市)・伊都(いと=現在の糸島市)・奴の国(な=現在の福岡市)です

糸島・博多も大勢の人間を養う食糧を得るには充分な平野平野です。 領土を南に広げながら国力を拡大し、国の中心となる都を作った。これが邪馬台国。 倭人伝に不彌国「うみ=宇美町」以降列記されている国名が現在の筑後地区にあった国で、この 浮羽〜久留米〜八女にまたがる広大な地域のどこかに中心都市を持っていたのではないでしょうか。

邪馬台国は山の大国を意味し、その前身に海大国があったのではないかという説があります。 強大な国家となった邪馬台国が、先祖の地海の大国を崇める意味で山(陸)の大国、邪馬台国を名乗ったのではないかという説です。 その海の大国とは??それが壱岐だったものと思われます。

邪馬台国はどこにあったか、いまだに特定されていませんがその中の一説としてのヤマタイコクとウミタイコクとのお話しでした。

 

有史以前、日本國成立にかかわる島

 

飛鳥時代より前はどうなってたの?
魏志倭人伝の国は現在のどこ?
邪馬台国はどこのあったの?
歴史の好きな生徒さんにとって壱岐は飛鳥時代以前の日本、魏志倭人伝の時代の日本を知る格好の地になるでしょう。

有史以前の壱岐について多少の個人的見解を織り込んで想像してみます。

 

半島の釜山から南へ50キロで対馬の北端です。
倭の先祖は海を渡って対馬に着いた。本来なら、対馬で安定した生活を築くところですが 対馬は海からすぐ山の地形で平野がほとんどありません。
すでに農耕技術を持っていたであろうご先祖様は対馬の南端から見えるのっぺりとした島、壱岐にわたりました。

壱岐にわたってみるとなるほど、高い山はない、平地が多い。
農耕に適している川の流れる湿地や平野があり、海に近く、小動物を狩るにも適した林があった。彼らはこの島に定住し子孫を増やしました。
農耕・採取・狩猟だけでなく船を作って対馬・五島・呼子、朝鮮半島あたりまで交易を行いました。

玄界灘は荒れる海。しかし季節と潮を知ったかれらには逆に悪条件も味方にできる。
もちろん正当な交易もあっただろうし、海賊行為もあったでしょう。巧みな航海術が彼らを強大にしました。
そして財を蓄え、交易により最新武器を手に入れ、玄界灘一円をエリアとする軍事国家となりました。

勝本町と芦辺町の境あたりを中心に点在する「鬼の岩屋」と呼ばれる古墳の数の多さは驚きに値します。
実はこれでも一部にすぎません。 壱岐島内に確認されているこうした古墳は256基もあります。 しかも、長崎県では一番古墳の数が多く、長崎県 全体の60%を占めるそうです。

掛木古墳から百合畑古墳群、そして県下最大の前方後円墳双六古墳。
この小さな島になぜ・・とお思いになるはず。

このエリアはほぼ壱岐の中央部。海から6・7キロはずれた小高い山の重なる地域です。
農耕も漁労も交易もこのあたりは不便。生活中心地は海辺の平野にあったはずですから住居跡ではありません。
そうです、ここはエジプトの「王家の谷」と同じ、王家の魂の眠る地、いうなれば「壱岐王家の丘」 なんです。

それにしても256基はケタはずれに多い。おそらく、長きにわたって壱岐にとどまって 経済力・武力に優れた海の王国になっていったのでしょう。
その歴代王とその一族が眠るのが「壱岐王家の丘」です。

壱岐の国の首都はどこにあったか
大きな規模の遺跡としてカラカミ遺跡・原の辻(ハルノツジ) 遺跡があります。
時代の前後関係もありますが 基盤となる農耕・水利の面で原の辻が間違いないでしょうか。
現在は干拓されて長崎県で二番目に広い平野ですが、弥生時代も、かなり広い平野であったことは間違いないようです 。

原の辻遺跡は静岡の登呂・佐賀の吉野ヶ里と並ぶ、国の指定特別遺跡 になっています。
国府の環濠集落が復元されて公園になっており、出土品は近くの一支国博物館に保管・展示されています。

壱岐の印通寺から呼子までほぼ27キロ。 天気が悪くなければ佐賀・福岡の山が見えます。
海の向こうに広大な陸地があることは日常見て知っていたでしょう。交易で地理や潮についても熟知していた。
最新の武器戦術と戦いに慣れた軍隊をもっていたからたやすく上陸制圧できたでしょう。

始めに呼子・唐津を、そして海沿いに東へ進み前原エリアを従え、さらに博多の地に。
後に魏志倭人伝に記される 末盧(まつろ=現在の唐津市)・伊都(いと=現在の糸島市)・奴の国(な=現在の福岡市)です


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